小説を読むことについて。

先日、久しぶりに小説を読んだ。その日は試合に負けた次の日で無性に小説を読みたい衝動に駆られた。とにかく小説を読みたかった。そんな1日だった。

西加奈子さんの「夜が明ける」を読んだ。日曜の膨大な時間をこの小説に費やして、1日で読み切ってしまった。ある程度のボリュームのある小説を1日で読み切ってしまうことは僕にとっては珍しかった。それほどにこの作品は面白かったのかもしれない。

だが個人的に得た読後感はこの作品に対するものではなくて、「小説」全体に対してのなにかだった。僕の中であきらかになにかの気づきがあったので、今回はそれについて書いていきたいと思う。

Adelaideのビーチ

僕は特別に読書家というわけではない。人を遥かに凌ぐほどの量の本を読むわけでもないし、なにかにこだわって読むとかもない。ただ、本は読む。そんな感じの人間だ。

思い返してみると、僕は全く本を読まない人間ではなかったことが小中学校の朝読書の時間から読み取ることが出来る。授業はたいしてまじめに受けているタイプの生徒ではなかったが、朝読書の時間は静かに本を読んでいた記憶がある。読んでいる本が面白ければ休み時間や給食の前のみんなを待つ時間にすら読んでいたような気がする。

そう思うと、僕は小さい頃から本に対して距離が近かった人間みたいだ。だが、高校時代の僕は小説に時間を割いた記憶がほとんどない。もしかしたら3年間で一冊も読んでいないような気さえする。それほどに理不尽とも言える時間をサッカーに費やしてきたし、やっと得た休みを本に費やすなど考えられず友達とのハングアウトに時間を注ぎ込んできた。

そんな僕が小説にのめり込むようになったのは大学一年生の頃だ。高校生の頃とは違い、通学時に時間を共にする友達が僕にはいなかった。それでいて通学時に利用していた電車はトンネルの中を通るので電波が届かない。加えて、殆どの時間が満員電車。僕は大学への電車通学が本当に嫌いだった。

そんな時間をなんとか有意義なものにと思い、手にしたのが「ノルウェイの森」だった。この作戦は完全に僕にハマり、これを機に僕は小説にのめり込むようになった。余談ではあるが、僕にとって「電車」ほど小説を読むに適した時間は今のところない。あの揺れ心地、本のサイズ感、本を読んでいるという見られ方。すべてが小説を読むに適していた。

AdelaideのLibraryにて奇跡的に文庫本を発見

それから7年ほどが経ち、僕はいま海外にいる。ろくに仕事もせず、平日の昼間からこんな文章を書いたり、呑気に公園やビーチにいって本を読んでいる人生をあの頃の僕が想像できたはずもない。若干25歳にして、人生はわからないもんだと胸はって言いたい。

海外にいるといろんな不便なことがあるんだけどそのうちの一つは日本の本を読めないということだ。Kindleで読めるだろと言われると思うがそうではない。Kindleにはあがってない本もたくさんあるし、本を読むなら「本」で読むのが良い。こればかりはぜんぜん違う。特に片手で持てる日本の文庫本サイズは個人的に大好きだ。小説を読むならあれが良い。

なんて気持ちもあったのか、最近は小説を読む機会が少なくなっていた。ほんとのところは「小説なんて読んでいる場合じゃない」という気持ちがあったんだと思う。生きていくだけのお金を稼ぐ職というものを持っていない僕は、今後の人生を考えた時に必ずお金もセットになってくる。どれだけのお金をというよりは、まずは今を生き延びるだけの目先のお金だ。そんな焦りのようなものがあるのかもしれない。その結果、最近読んでいた本は健康や歴史、ジャンルはさまざまだが小難しそうなものばかりになっていた。もちろん、それらの本は面白かったし、単に興味があって読んでいた。でも、どこかでそういう本なら将来のためになるしという、勉強している感をを得て自分を落ち着かせていたのかもしれない。どこかで、「小説を読んでも自分のためにならない。」そんな傲りがあったように思う。

海の雄大と恐ろしさは好き。

だけど、先日小説を読んだことで、そんな気持ちを蹴飛ばされた。

結論からいうと、僕の人生に小説はやっぱり必要だし重要なものだと思う。その理由は自分の人生を客観的に見つめ直させてくれるアイテムだからだ。
ほとんどの場合、小説に出てくる人物やストーリーは自分の人生にはないもので設計されている。にもかかわらず、その人物や世界観に没入しストーリーを味わう。それが終わった時に得られる儚げなあの読後感がたまらない。だけど僕はあの読後感がどこから来ている感情なのか説明することがずっとできなかった。できなかったけど、心地よくてそれが僕を小説を好きにさせていた。でも今回、その理由が少しだけ分かった気がする。僕は小説の人物の人生を客観的にみることで、知らず知らずのうちに自分の人生との違いなどに目を向けていた。もちろん、小説の人生と僕の人生は全くの別物である。だけどそれがまたよくて、そうして他者の価値観を理解し受け止める作業に繋がっていたように思う。そして、この新たな価値観を知ることが自分の人生を見つめ直すことに繋がってきた。小説の人物や世界観に自分を照らし合わせることで、自分が何が好きで、何を嫌い、この社会のどこに違和感を感じているのか、そんなことをはかり直していた。そしてこの客観的に自分の人生を見つめる作業はきっと大切だ。意味があろうがなかろうとも。

別に他の人の価値観を知ることは現実世界からの他者からも出来るし、映画やその他の芸術だって出来る。なのになぜ小説が自分にとってそうさせるアイテムなのかはわからない。けど、きっと視覚(文字)からしか情報を読み取ることができない限定がより想像を膨らませ没入を深くさせてくれてるんだと思う。

僕を小説の世界に引きずり込んだ小説家村上春樹さんはこう言う。

「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断をくださないことを生業とする人間です。」

村上春樹雑文集より

これほど村上春樹小説を説明するにふさわしい言葉はない。余白こそが彼の作品の魅力だと思うし、僕がハルキストである所以だろう。

話は長くなったが要はとにかく小説はやっぱり良いなって話だ。小説に限らず音楽や芸術関係すべてが素晴らしい。素晴らしいのだが、僕らはついそれらを忘れがちになる。今すぐ稼げるお金にならないから、自分の成長のためにならないからとどこかに追いやってしまいがちだ。だけど、人生においては「今は価値がないかもしれないもの」に触れておくことが大切だと思っている。

そう思いながら人生を歩みたいと思う26歳をもうすぐ迎えるこの頃だ。

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この記事を書いた人

Vegetarian x Athlete.
Football player in Australia(NPL South Australia).
Interested in Environment issues.

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