ネイマールのドキュメンタリーを見た。普段見ることの出来ない、スーパースターであるが故の葛藤がそこにはあり、サッカー選手として生活していくことの厳しさを感じた。
と、同時に、というかそれ以上にフットボールっていいなとあらためて思わされた。
ブラジルオリンピックでネイマールが優勝に導いた時の国民の喜び方。
ワールドカップでドイツに大敗した時の絶望。
PSGがチャンピオンズリーグで鬼門のベスト16を突破した時のサポーターと選手の歓喜。
どれをとっても素晴らしいと思わざる得ないシーンだった。
パリにしてもブラジルにしても、彼らに共通していることは「フットボールに生きている」ということ。
彼らは小さい頃からフットボールに生き、夢を抱いて成長し、仮にプロ選手になれなかったとしてもサポーターとしてフットボールに生き続ける。
ヨーロッパや南米に根付いているいわゆる”フットボールの文化”というものに今もなお憧れを抱いている。
とはいっても、日本にも彼らほどとは言えないかもしれないが立派なフットボールの文化と環境があると僕は思う。
僕は埼玉で育ち、地元ではないものの同じ埼玉のチーム「浦和レッズ」のサポーターとして少年時代を送った。今思えば、レッズのサポーターはほんとにすごいと思える熱気だった。
そんなサポーターの声援をうけ、活躍するサッカー選手に僕は憧れ、”プロサッカー選手として活躍すること”を夢見て毎日ボールを蹴り続けた。
それがいつしか上には上がいる現実を目の当たりにして、歳を重ねるにつれて”プロサッカー選手になる”という夢を口にすることが恥ずかしくなっていき、気付けば”プロサッカー選手”という夢は諦めていた。そんな日本ではどこにでもいるサッカーに励んできた一人だ。
それでも僕はまだフットボールを続けている。人生のある地点で「別にプロじゃなくてもサッカーやり続けてもいいんじゃね?」と吹っ切れたからだ。
そんな僕は、少年の頃サッカーに夢を抱いて日々ボールを追っかけていた思い出は、決してわるくないもんだと思っている。本当に楽しかった。
「ニュージーランドの子供たちのフットボールはどこか諦めているような感じがする」
言い方は悪いかもしれないが、僕が率直に抱いている感想だ。もちろんすべての選手がそうではないし、中には将来プロになって生活することに必死に取り組んでいる人もいる。
それでも多くの人がそうではない。冷めている訳ではないんだがどこか熱がない。熱というかなんというか、「これだけは負けらんない」みたいな必死さが伝わってこない。
海外から来た部外者が言うのもなんだが、僕はなんかすごく寂しく感じてしまう。
でも、それもそのはずでニュージーランドにはプロのサッカーリーグがない。
その国のトップリーグでプレーしている人が、週五日フルタイムで働いているのを目の当たりにして、育つのだ。そんな環境でフットボールで生活することを夢見る方がむずかしい。
ただ、これは自分の人生にも起こりえたことだ。
ニュージーランドという国は別に後進国とかではないし、人口が少ないだけで生活レベルは日本となんら変わらない。ラグビーとクリケットが強すぎるだけだ。それだけでフットボールで夢を見ることが難しくなってしまっている。
日本だってそうだ。僕の時代は既にJリーグがあったし、日本でフットボールが盛り上がっている最中だった。ちょうどその時に少年時代を過ごすことが出来た。だから夢を見ることが出来た。
もし50年前の日本に生まれていたら、フットボールに夢を見ることは不可能であっただろう。
つまり、自分はただのラッキーで幸せ者なのだ。
ニュージーランドにきて、この国でサッカーを二年プレーした。この国のトップリーグでプレーしているから、それなりにこの国のサッカーの文化が分かってきた。
フィリピンに一か月だけ住んでいた時に、当たり前のように裸足でボールを蹴っている少年たちをみた。
だから、フットボールで夢を見て少年時代を過ごせたことに、今はすごくありがたみを感じる。
それと同時に世界には”それ”が出来ない人たちがいることを知っておかなければならない。
そしてそれとまた同時に世界には”それ以上のフットボール”の文化に生きる人たちがいることも知っておいた方がいい。
これは経済とか社会とかお金とか学力とか努力とかそういうものではない。
どこで生まれ、どこで育ってきたかという「運」でしかない。
僕はそう思う。
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