読書は良い。朝少し早く起きてまずは常温の水をコップ一杯飲む。7−8時間睡眠したあとの乾ききった体にまずは水分を補給し、内蔵をゆっくり起こし始める。この時点で朝日を拝めることができれば尚良い。まあ、起きる時間と季節と、そして天候に恵まれなければ起きたタイミングで太陽を拝むことは難しいのだが。その後には眠い目をこすりながらも朝のスムージーを作り、エネルギーを摂取する。筋肉合成のためにタンパク質をまず摂取してあげられるかが朝のミッションである。その後は歯を磨き、跳ね散らかした寝癖と顔を洗って着替える。ここまで来てようやく朝の締めくくり、かつ、始動の合図となるコーヒーを注入する。日本に帰ってきてからは時間をかけてフィルターでコーヒーを淹れる。ニュージーランドやオーストラリアではプランジャーで淹れていた。とにかくニュージーランドのカフェ文化を経験したことでコーヒーへのこだわりは日々増していくし、コーヒーに愛着を持つことは人生をより良く生きていくための小さなコツなような気もしてきている。とにかくコーヒーのない朝はメッシのいないバルサと同じだ。
(タイトルとトップ画像が矛盾していることについてはノーコメントで。)

日本に帰国してから下手をしたらもうすぐ2ヶ月が経つ。その間に何をしていたかと言われると、何もしていないと答えるのがきっと一番正しい。初めは3年ぶりに友人や家族に合うことを自分なりに美化していたけれど、流石にきつくなってきている。「無職」というこのステータスに、何もしていないというやりきれない日々に限界が来ているのかもしれない。たとえやりたくない仕事であろうとも働いてお金を稼いで、疲弊して、美味しいビールを飲んで寝ていたほうが幸せであるように思うことさえある。贅沢な悩みだ。

一度考えてみた。「自分はなにをやりたいのか」ではない。厳密に言えばこれも考えてしまうのだが、これを考えたところで埒が明かないのは人生を通して学習済みだ。考えに考えを繰り返して出てきた「やりたいこと」なんて人に話しやすいように綺麗にまとめられたただの飾りでしかない。本当にやりたいことはもう既にやっているはずだ。

考えてみたのは、海外にいた時に日本でやりたかったことについてだ。友達と飲みに行く、家族に会う、新しく家族となった猫たちに会う、温泉に入る、数えだしたらキリがないが全て書き出してみた。そうして気づいたことがある。読みたかった本が電子書籍化されていなかったことによって読めなかったという経験が何度あったことか。これだけテクノロジーが発達した時代でも、日本でしか、そして「本」としてでしか読めない本がたくさん存在するのだ。そして意地悪をするかのように、それは面白そうな本にきまって電子書籍化されていないのである。

僕は決めた。残された日本での時間は堂々と本を読むことに捧げようと。本を読むということは不思議である。もちろん書いてあることは有益だし、学んで、活かされなければ意味がない。がしかし、読んでいるだけでも面白いというのもまた事実なのだ。読んですぐに実践しなくとも、脳の端っこの記憶にしまっておくだけでもいつか使われるときが来る。もっと言えば一生使われるときが来なくても良いと思っている。その時、その一瞬で、新しい発見やモノの見方が知れただけで少し背が伸びた気分になれるのだから。

本はいいよ。面白いから読んでいるだけなのに、読み終わったときには不思議と達成感を与えてくれるのだから。これは小説にだって同じことが言える。最近はなにも予定のない一日を使って小説を一気に読み切ってしまうような読み方をしている。やっていることと言えば、なんも社会のためにはなっていないし、一日中ゲームや娯楽をして過ごすのと何ら変わりない。にもかかわらず、小説を読み切るとこれまた達成感があるのだ。なにか勉強をやり切ったような達成感がある。これが心の健康に八役くらい買っているのだ。しかも小説に限っては読み終わったあとのなんとも言えない読了感も味わうことが出来る。そしてその確率は映画館でとんでもない映画を見るよりも個人的には高い。あれは一度目の読後しか味わえないし、あの感情が寂しさなのか何なのかはいまだに分からないが、僕は好きである。

要は、本を読んでいる限り精神的に健康でいられる可能性が高い。今はそうでもしてでも自分を肯定してあげたい。そんな時期みたいだ。さあ本を読むとするか。

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