2021年10月27日
今現在、ニュージーランドのサッカーは止まっている。オークランドでコロナが収束しないことから、ナショナルリーグの開催と、先日の準決勝で勝利をしせっかく決勝に駒を進めた国内カップの決勝戦も中止が濃厚となっている。
ここにきてこの国にとってフットボールはプロスポーツでないことを大きく痛感している。あまりにもサッカーは生活において優先順位が低い。人々にとって二の次や三の次ではなく、もっと下なのだ。ヨーロッパや南米で見られたようなフットボールのない生活の寂しさはこの国にはない。
そう。プロフェッショナルでないということはこの国のフットボールを考える上で欠かせないファクターになる。
今回はそれを踏まえたうえで、日本とニュージーランドの学生サッカーを比較することでこの国のサッカー・選手について考えていきたいと思う。
ニュージーランドに大学サッカーというものは存在しない
厳密にいえば存在しないわけではないが、ニュージーランドには日本のように大学生だけのサッカーリーグというものは存在しない。これはそもそもの大学の数や人口が少ないというのが関係しているだろう。
僕がプレーしていた南島リーグには1チームだけ大学のチームが参加していたが、正直レベルはそこまで高くない。大学生年代の選手や大学生は学校と関係なく、その地域のシニアチームに所属するのが一般的である。
クラブと学校を掛け持ちする高校年代
高校生たちはクラブと学校のサッカーを掛け持ちしていることが一般的みたいだ。
クラブの練習も学校の練習も日本のように毎日練習することはない。週三日や二日のトレーニングのチームが多いため曜日をずらして学校のサッカーとの掛け持ちが可能になる。
それでも選手たちの本場はクラブのサッカーとなることが多いみたい。地域の学校の大会はある程度の盛り上がりを見せるものの、レベルは落ちるし日本の高校選手権のようなレベルや盛り上がりはない。
それに加えて今年から導入された20歳以下の選手の起用義務のルールがあるため高校年代の選手にもシニアチームのトップでプレーするチャンスが増えた。このことから学生の選手がよりクラブのサッカーに専念する傾向が強くなることだと思う。
学生サッカーによって培われた主体性
僕が思うにこの国に学生サッカーが存在しない影響は選手の主体性に現れると思う。あまり主体性とかざっくりした言葉は使いたくないのだが、僕は大学サッカーを通じて組織運営の難しさを痛感し、苦しみながらも主体性という面では大きく成長できたと考えている。たかだか東京都リーグに所属する大学(上から数えて三番目の大学リーグ)ですら、それなりに真剣に「どうなればチームが強くなるか」を考え、行動していた。しまいには「このチーム(大学)の価値など考え始めもしていた。もちろん上手くいかないことも多く、というか失敗ばかりであったがその分成長も大きかった。
まとめるならば「チームのことを考えるようになる」というのが日本の学生サッカーの利点だと思う。
この国の選手にはチームのことを考える選手というのは極めて稀のように思う。30近くのいい大人はいつも子どものようにはしゃいでるし、あまりチームのことを考えているようには思えない。キャプテンを中心にチームのこと考えている人ももちろんいるが、日本のように真面目に堅苦しくマネジメントするといったことは決してない。選手がなにか意見を集め、行動にうつすということはほとんどないと言って間違いない。そしてこの傾向は年齢が若くなればなるほど強くなる。高校生や大学生年代でチームのことを考え行動にうつせる選手はほとんどいないだろう。
そう考えると、学生サッカーがないことによって「自分たちが組織を運営しなければならない」状況に恵まれない、そしてそれが主体性の欠如に繋がっているということは、すこしもったいないようにも思えてくる。
上下関係のない文化
一方で学生サッカーがないことが機会損失だけに繋がっているかというとそうでもない。
主体性を逃す代わりにこの国の選手たちは社会性を備えている。社会性という言葉が何を指すのかと聞かれればよく分からないのだが、この国の選手は年齢差関係なく人と接する。これはサッカーに限った事ではなく、国の文化なだけなんだけど学生サッカーがないことによって10代の選手が30歳を超えている選手とプレーできるということはとても貴重だと思う。
まずは人間性の面。歳の差などほんとうに関係ない。変な上下関係がないことは「チームが強くなる」ということに必ずメリットになると思うし、選手自身もいいメンタリティしていると思う。
「ピッチに立てば歳の差は関係ない」という言葉が蔓延っていた日本でも、実際は若干の遠慮が混じっていたり、そこに指導者が混じってくるともっと厄介になることが多々あった。社会に出た時のための教育としての上下関係は、サッカーにおいては間違いなく不必要なものであるにもかかわらず、日本の学生サッカーには持ち込まれることが多い。これがないというのはとても好都合であろう。
とにかく上下関係がないという文化、若いうちから年上の人たちと対等の関係を持つということは社会性を大きく育むと考えている。
はたして主体性と社会性といった人間性ではなく、サッカー直接的に影響することはあるのだろうか。
リスクの大きすぎる日本の学校選択
僕が思う決定的な違いは「移籍が出来る」という点である。
僕はこれまで「あの高校に行ってアイツは潰れた」という言葉を何度も耳にしてきたし、この目でも見てきた。日本の学生サッカーがもつ大きな欠点は「そのチームに合わなかったら、それで終わり」ということだ。厳密にいえば、転校すれば違うチームに入れるが、実際問題いまの日本ではまだそう簡単なことではない。生活も一変するし、精神的なコストも大きい。学校選び(チーム選び)が選手生命を左右する力を大きく持ちすぎている。また、日本にもクラブチームという考え方があるが東京のような場所でないとクラブチームは充実していないし、ある程度のレベルがないとは入れないといった障壁も高いように思う。
一方でニュージーランドではクラブ間の移籍が頻繁に起きる。
チームメイトと馴染めなかったり、試合機会に満足いかなかったり、金銭面でのオファーなど理由はさまざまだがシーズン途中にも関わらず移籍が行われている。
僕は個人的にこの文化はとても好きだ。チームとうまくいかなかった時に他の選択肢をもっているということはサッカーを続けていく上で大切である。そしていろんなサッカーを体験できるという点でも多くのチームを経験できるメリットは大きい。
僕は小中高大で4チームしか経験していない。たまたまコーチの入れ替わりが激しいチームだったから多くの指導者に教えてもらうことが出来た。しかし、それがもし最小4人の指導者のもとのみでサッカーをしていたらサッカー選手としての成長幅はかなり小さくなっていたと思う。
僕が海外のチームに来てすぐスタメンを勝ち取り常に結果を残し続けてこれた理由は、学生時代に多くの指導者を経験し、そのすべての指導者の要求や意図を汲み取ろうとしていたことが関係していると思う。
そしてもうひとつ、人口約500万人のこの島国で、なおかつラグビーという絶対的人気に叶わないサッカーは競技人口も日本とは比較にならない。競技人口が低いということは競争の低下にも繋がる。そんな環境下で「チームに合わなかったからやめる」などといったちんけな理由で競技人口を失うのは損失が大きい。
狙ってのことか偶然なのかは分からないけど、トラブルの多い学生年代にチームの選択肢があることは選手の競技継続に必ず一役買っていることだろう。
ニュージーランドのサッカーはこれから強くなっていくのか
今回はニュージーランドに学生サッカーがないことが及ぼす影響について考えてみた。日本に比べシニアや学生のサッカーレベルはまだまだ低いし、人気もラグビーやクリケットには敵わない。しかし、現地の人はサッカー人気は確実に高まっているし、レベルも上がってきているという。FIFAランキング111位のニュージーランドが東京オリンピックでは、日本代表相手にPK戦にまでもつれたことを考えても、若い年代を中心に力をつけてきているのだろう。そんな成長中のニュージーランドにおいて学生年代は必ず鍵を握っている。
これからもこの国のサッカーには注目していこう。
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