旅と英語。この時代に英語を学ぶ意味はあるのか。

突然終わりを迎えたスペインサッカー生活から衝動に駆られるかのように始まったヨーロッパの旅もついに終りを迎えた。帰国当日に財布をなくしていることに気が付き、それとは関係なしにすでに全財産を使い果たす寸前まで来ており、色んな意味で終わりを迎えているのである。ヨーロッパを旅行するのは学生以来でありおよそ四年ぶりとなった。あの頃と違うのは一人きりであること。そして今回は英語が話せるようになっていることだ。当たり前だが、4年前に英語を全く話せないまま友人と勢いのままに動き回っていた頃の旅行とは、ひと味もふた味も違った旅となった。今回は、スペイン、フランス、ベルギー、そしてイギリスというそれぞれ違う言語を話す国を訪れて感じた「英語」について話していきたいと思う。

目次

旅における英語が話せることの利点

バル。LOVE、バル。

僕は大きく分けて2つあると感じた。一つは、旅におけるストレスや不安が圧倒的に減ること。あたり前のことだが、ちょっとわからないことがあったときにスッと聞いたり確認を取れることはかなり便利。例えばホテルや空港でも相手が何を言っているのかを理解できると不安要素が減るし、ちょっとしたトラブルのときにも問題なく対応できるのはかなりデカかった。そして現地について調べたり、サッカーのチケットを取る際には日本語で調べるよりも英語で調べるほうが情報量が桁違いに多い。キックオフ三時間前に格安の40ポンドでリバプールの試合を見れたのは英語ありきと言ってもいい。ただ正直に言うと、英語が話せなくてもここらへんの部分はなんとかなる。なんとかして生きてきた僕が言うから間違いないと思う。しかし、分からないということは人間にとって(少なくとも僕にとって)はストレスを生じる。ただでさえ知らない人とのドミトリー生活や、慣れない環境で生活していくのだから、こういう小さなことでストレスを減らせるのは意外にも大きなことだと気がついた。

二つ目の利点は人と話せる幅と機会が増大することである。一人での海外旅行は気楽な反面、結構寂しい。誰とも話さないってことは孤独感を掻き立て寂しさを生じる。日本語しか話せないときは、日本人としか話すことができなかった。もっというと、海外にいる数少ない日本人と話す機会にたまたま辿り着いた人としか話せない。僕みたいな人見知りだと誰これ構わず話しかけられないからだ。それが英語が話せるようになるとある程度の外国人はカバーできる。加えて外国人はホテルなどの出合い頭などで目が合えばとりあえずHiくらいの挨拶はするし、そこからスモールトークも発生しやすい。また、外国人と話すことはかなり面白い。ここで言う会話はありきたりな「どこから来たの?」とか「日本に行ったことあるよ!」とか「ナイス!」みたいな会話ではない。もう少し普通の会話というか、日本人同士でするような日常会話である。そのくらいのコミュニケーションが取れるようになるとお互いの国の文化について話し合ったり、それまでの旅について聞くことが出来るので本当に面白い。この部分では間違いなく4年前のヨーロッパ旅行では味わえなかった面白さが、今回の旅には溢れていたように思う。それは一人で旅行しているからではなく、英語が話せるからだ。

旅の中で思い出に残っている場面

バルセロナでのパブ。大荒れのマンUサポーター。

ここで今回の一人旅で思い出になっているシーンを思い返してみる。まず頭に浮かぶのは意外にも一人で寂しく過ごした時間だ。特に夜道をへとへとになりながら歩いたり、一日中歩き回ったあとに一人で寂しくビールを飲んでる瞬間が思い浮かぶ。あの一杯はなかなか最高だった。カンプノウから一人でホテルまで歩きながらレストランを探すも見つからず、結局ホテルの近くでハンバーガーとビールを買って一人で公園で食べた。死ぬほど美味しかった。カメラを壊して一日中ブリュッセルの街中を駆け回っている情景も思い返される。これらに共通することは「めちゃくちゃ疲れている」、「一人で寂しい」といったネガティブな感情である。

一方で人と共に過ごしたキラキラとした時間も鮮明に覚えている。ホテルが同じでキッチンで会った日本人と語った夜や、ゲストハウスの同じ部屋の人と話した内容などだ。少ししか時間をともにしてないのにお別れのときにはいつもセンチメンタルな気分になるほどだった。特にブリュッセルでローカルの人たちと仲良くなって過ごした夜は忘れられない。観光客である僕らにローカルならではのパブに連れて行ってもらったり、ベルギービールの楽しみ方を教えてくれた。本当に楽しかったし、英語がなければ彼らと話せなかったと考えると英語はやっぱり重要だと思わざるを得ない。まあそんな彼らはベルギーという国の立地上、だいたい三カ国語はみんな話せるというのだからすごいとしか言いようがない。

つまり思い出に残る瞬間というのは、「一人寂しく過ごした寂しい時間」or 「人と共に過ごした楽しい時間」という対局に位置する2つだ。ガウディ建築が圧倒的だったとか、ルーブル美術館はものすごくデカかったとか、モナ・リザを見たとか、旅行といえばみたいな観光ももちろん楽しい。しかし、そういった観光めいた類のものは意外にも思い出には残らない。記憶や写真の記録には残るだろうが、思い出として鮮やかに保存されることはないように思う。

翻訳機がこの思い出の瞬間に入り込んでくるまでにはまだまだかかると思う

たしかここはパリ。

では、旅や旅行において思い出に残るこういった瞬間に翻訳機が入り込んでこれるのだろうか。僕の意見としてはまだまだNOだ。友達とパブでお酒を飲んだり、キッチンで料理しながら隣で料理する人と何気ない会話をしてそこから仲良くなる。同じドミトリーと部屋でちょっと挨拶した流れでそのままご飯に行ったり、たまたまエレベーターで一緒になった人とそのまま仲良くなる。これだけ翻訳機が便利になってその進化がとてつもないとしても、こういった瞬間に翻訳機が活躍するまでにはまだまだ時間がかかると思う。だからこそ僕は英語が必要だと考えている。海外で働きたいとか、海外でサッカーをしたいとかいろいろな理由があるかもしれないけど、そういったものは英語が話せなくてもなんとかなる。実際にそういう人もたくさん見てきた。だけど僕は、海外に住んで日本人とは違ったカルチャーを持つ人と友だちになって、思い出を共有することが好きだ。それがしたくて海外でサッカーをしたり、旅をしている。そのためには結局、英語が必要だし、翻訳機が入り込んでこれるスペースはそこにはまだない。であるならばどれだけ時間がかかろうが勉強をして英語を話せるようになりたいと思っている。これが僕が英語を勉強し続ける理由であり、英語が大切であると考える理由だ。

翻訳機はコミュニケーションのためではなく勉強のために使うのが正しい使い方だと思う

リバプールの雰囲気は控えめに言って最高だった。

こんなことを言っていると僕は翻訳機には全く頼っておらず、反テクノロジーの立場に思うかもしれない。しかし実のところ、翻訳機にはめちゃくちゃにお世話になっている。Deepl翻訳を使わない日はないくらいに愛用しているし、わからない単語や表現があればすぐにアプリで検索している。本当に今のスマホは便利だと思う。僕がプレーしていたスペインのマラガ地方の田舎町では英語を話せるスペイン人はほとんどいなかった。SIMカードを買うときも、スペインの郵便局から荷物を送るときも、薬局でコロナの薬を買うときも、彼らの言っていることはほとんど分からなかった。そして僕の話すスペイン語も全く通じないので、Deepl翻訳にてコミュニケーションを取っていた。本当に便利ですごい時代になったなと感心していた。

一方で、スペインでサッカーしていたときにこんな中国人がいた。彼はインターネット無しで瞬間通訳できるポケトークのようなものを持参してスペイン人やイングリッシュスピーカーとコミュニケーションを取っていた。誰これ構わず話しかけてコミュニケーションを取るその度胸と社交性は本当にすごかった。しかし、どうにもこうにもポケトークを介すコミュニケーションには大きなぎこちなさと言うか距離感が生じていた。それはまだ僕らが慣れていないだけなのだろうか。僕にはどうしてもそれ以外の何かが翻訳機を使うことによるコミュニケーションの阻害を生んでいる気がしてならなかった。しかし、その時の僕にはそれがなぜなのかは分からなかった。

ロンドンを出発するこの日、僕は財布を盗られた。(呑気にコーヒー撮るな)

ただし、前述したようにポケトークを使い続けることによって、その中国人の彼はとてつもないスピードで外国語を吸収していくんだろうなとも思った。よく言われる話だが外国語を学ぶには実際に聞いてそれを真似して話すのが一番身につく。自身の体験談からしてもそう思う。だから中国人の彼はポケトークで会話を繰り返すうちに自然と外国語を覚えていき、そのうちポケトークなしで会話できる量が増えていくだろう。

同じくして僕も翻訳機能は本当に愛用している。例えばYou TubeやNetflixを見るときには必ず外国語の字幕を利用する。勉強を兼ねるときには拡張機能を使って二重字幕も使う。わからない単語が出てきたら瞬時に調べられるし、音と映像で単語やフレーズが結びつくから学習スピードが高まっているように感じている。調べ物をするときは基本英語だけど、正直膨大な英語の文章を読むのは時間もかかるし体力も使う。そんなときはDeeplにお世話になっている。しかしそれでもリーディングのスピードは速くなっているし、外国語学習の効率を高めるためにテクノロジーが大活躍していると思う。これが僕が現時点では、翻訳機はコミュニケーションのためではなく勉強道具としてのほうが優れていると思う理由だ。

勉強して、外国語を話せるようになること

ロンドンは街並みきれいで歩いているだけで楽しい。寒くなければね。

ブリュッセルでのドミトリーでイギリスの女の子と仲良くなった。彼女はイギリス人なのだが大学卒業後、フランスにて先生として働いているみたいだ。つまりフランス語が話せる。よくよく考えるとネイティブイングリッシュスピーカーで英語以外の言語を話せる人はあまり出会ったことがない。偏見もあるがイギリス人やアメリカ人は英語が話せればどこでも生きていけると思っているし、外国でもその態度は変えない人が多い。それほどまでに英語は結局最強な言語だ。しかし彼女は大学でフランス語を学び、今はフランス語を流暢に話す。どれくらい大変だったかと聞くと、本当に大変だったと彼女は答えた。僕らが英語を学ぶのに苦労するように、彼女も苦労してフランス語を身につけたのだ。そんな彼女がフランス人やベルギー人(ベルギーではフランス語も公用語の一つ)とフランス語で会話をする姿には、リスペクトしかなかった。本当に堂々としていたし、自信に満ち溢れていた。そこには長い年月をかけて手に入れたからこその優美さがあった。

それを目にしたときに、中国人の彼とポケトークを介して会話したときに抱いた違和感の正体が分かった。彼との会話にはお互いのプロセスや背景が何もなかったのだ。どうりで浅い会話になってしまうわけで、我々がポケトークに慣れていないだけではないはずだ。会話にはお互いの背景や過程を理解して、リスペクトの上に成り立つべきだと個人的には思う。そういったコミュニケーションは本当に心地が良い。村上龍さんはエッセイにてこう述べていた。

「誰かと、個人的なコミュニケーションが成立することは「快楽」なのだと初めて気づいた。」

すべての男は消耗品である。

これが書かれたのは1996年頃だし、当然翻訳機を用いてのコミュニケーションはほとんどなかったと思う。そう考えると、彼が述べたこの言葉は非常に的を得ているように思うし、もやもやしていた僕にとってはとても腑に落ちた。

結局地道に勉強して外国語を学ぶことが後々の幸福度を高めるだろう

リバプールサポーター。水曜21時。スタジアム満席。

つらつらと旅しながら感じた英語の強力さや外国語について書いてきた。要は結局勉強して英語なり他の言語を勉強をして話せるようになることが一番だと思う。それが結果的に幸福度として自分に返ってくると思う。翻訳機の便利さはすごいし、テクノロジーの進歩もものすごい。グーグル翻訳があれば英語を話せなくてもなんも苦労することなく海外旅行も出来るだろう。今では、VRの世界ではリアルタイムで話した言葉が翻訳されて伝わる(表示される?)ような会話が行われているみたいだ。そうなるとタイムラグも生じないし、これまで以上にスムーズにコミュニケーションが出来るんだと思う。だけど、それをもってしても僕にはそのコミュニケーションにはまだ溝が生じると思っている。パブでビールを飲みながら心のうちから語り明かすような会話がそこにはあるようにはどうしても思えないのだ。そうなると僕にとってその会話は思い出にはならない。そのコミュニケーションは快楽にもならないし幸福にも繋がらない。功利主義によると幸福量というのは「快楽量ー苦痛料=幸福量」という式になるらしい。僕の感覚的には翻訳機を用いたときの苦痛量はとても小さい。なぜなら便利であるからだ。しかしその分快楽量も少なくなって、結果として得られる幸福量も多くはならない。便利であることと幸福であることは繋がらないみたいだ。ただ、長い年月をかけて外国語を身につけた場合、苦痛量はもちろん大きいが、その分快楽量は何倍にも跳ね上がる。そして得られる幸福量も大きくなる。これが今回僕が旅行をしながら英語で会話をすることによって感じていた幸福だったのだ。

だからこそ僕はこれからも英語を勉強し続けるし、他の言語も勉強し続けることになるんだと思う。とにかく人と話すことは最高だ。知らないことを知ることは最高だ。異文化を知ることも本当に面白い。人見知りで孤独も嫌いではないこの僕が言うのだから間違いない。

そして旅は最高だ。

アンフィールドも本当に最高だった。

以上。

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この記事を書いた人

Vegetarian x Athlete.
Football player in Australia(NPL South Australia).
Interested in Environment issues.

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